REPORT

京都六地蔵巡り「まちと宗教施設」「まちを視る」分科会共同で開催

 京都では、8月22日、23日の両日、都の出入り口(街道沿い)六ヶ所に祀られた地蔵菩薩を巡拝して、罰障消滅、家内安全、無病息災、家運繁栄を祈願する「六地蔵巡り」が800年もの伝統行事として続いています。「まちと宗教施設」分科会と「まちを視る」分科会では共同で、8月22日の日曜日に京都の六地蔵(一部)を巡り、都市におけるお寺の役割と、地蔵盆を通じてコミュニティーの役割や活性化を考えるフィールドワークを行いました。(文:茂福隆幸・今中昌男) 罰障消滅
家内安全
無病息災
家運繁栄

 今回は夏の終わりに近づいてきたとはいえ、大変な猛暑にもかかわらず8名の参加により、六地蔵の内の3箇所の地蔵を巡るために、集合場所の京阪電鉄宇治線六地蔵駅を出発しました。

■京の六地蔵巡りとは


大善寺地蔵盆


大善寺


徳林庵


徳林庵


徳林庵


上善寺


懇親会

 京の六ヶ所の出入り口(街道沿い)とは、

  1. 奈良街道・六地蔵の大善寺(伏見六地蔵)
  2. 西国街道・上鳥羽の浄禅寺(鳥羽地蔵)
  3. 丹波街道・桂の地蔵寺(桂地蔵)
  4. 周山(若狭)街道・常盤の源光寺(常盤地蔵)
  5. 鞍馬街道・鞍馬口の上善寺(鞍馬口地蔵)
  6. 東海道・四ノ宮の徳林庵(山科地蔵)

 これらの寺院に安置された木像地蔵菩薩立像(重要文化財)は、平安時代の初めに小野篁(おのたかむら)が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後に、木幡山の一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(大善寺)に祀ったものと言われています。

 都で疫病が流行していた平安後期に、後白河天皇はこの地蔵尊像を深く信仰され皇位長久、王城守護を祈願され、また、都を往来する旅人たちの路上安全・健康と庶民の疫病退散・福徳招来も願われて、1157年に都の出入り口に祀るよう平清盛に勅命しました。清盛は西光法師に命じ、街道の入口に六角堂を建てて、一体ずつ分置し「廻り地蔵」と名付けました。これにより庶民に地蔵信仰が広まり、六地蔵巡りの風習が室町時代に始まったとされています。

 毎年京都では8月22日、23日に町内のお地蔵様近くに集まり「地蔵盆」が催されていますが、「地蔵盆」は子供の無事成長を願う親の気持ちで、六地蔵信仰に起すると言われています。

 地蔵巡りは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に苦しむ全ての人々を救済するように願って祀られた地蔵菩薩を巡拝することで、六ヶ所の地蔵寺を巡り、それぞれのお寺で頂く幡をお守りとして玄関に吊るし、疫病退散・福徳招来などのご利益があるとされ、家運繁栄など祈願して参拝されます。

■奈良街道・六地蔵の大善寺(伏見六地蔵)

 最初に巡ったのは、京阪六地蔵駅から西北に徒歩約8分の大善寺です。この寺の本尊は六丈阿弥陀仏で、705年、藤原鎌足の子・定慧によって創建されたと伝えられています。大津の三井寺を開いた智証大師円珍が天台密教の寺として開基したのが始まりで、鎌倉時代になり地蔵信仰が盛んとなり、浄土宗に転じて大善寺となったとされています。

 外環状線に面した表門は立派で、境内も広いのですが、縁日の屋台もなく参拝客はまばらでした。しかし、10人ほどの老女が御詠歌を上げていたのが、地蔵盆らしかったです。また、近くの公園で近所の子供やご夫人たちが集まり「地蔵盆」を催され、その公園の横にひっそりと地蔵尊がありました。

■東海道・四ノ宮の徳林庵(山科地蔵)

 次に京都市営地下鉄東西線で山科に行き、徳林庵を巡りました。この寺は、仁明天皇第四皇子で琵琶の名手の人康(さねやす)親王の菩提を弔うため、1532〜55に創建された寺で、親王は盲人・座頭の祖神とされ江戸時代には、毎年2月16日に四宮河原で親王を弔うための琵琶演奏が行われたと言われています。

 山科駅から四之宮駅までの約500mの旧東海道沿いの両側にはびっしりと縁日の屋台が並び、人通りも多く驚きました。その途中の道路沿いに徳林庵があり、境内は狭いのですが、参拝客で賑わっていました。徳林庵の地蔵盆が盛んな反面、周辺の街道沿いの地蔵はお飾りもなく、打ち捨てられているような感じがしました。

■鞍馬街道・鞍馬口の上善寺(鞍馬口地蔵)

 次に京都市営地下鉄東西線と烏丸線で鞍馬口の上善寺を巡りました。この寺は863年に比叡山の慈覚大師円仁によって、千本今出川の地に天台密教の道場として建立されたのが始まりで、1469年〜1487年に衰退していた寺門を天台念仏道場として中興開基され、後土御門・御柏原の両天皇が当寺で授戒されたころから隆盛しました。1594年に豊臣秀吉の命により現在の地に移り、第十三世の肝誉上人になって浄土宗に転じています。更に1712年に松平越前守が当山を菩提寺と定め、不断念仏を再興しました。

 境内東の墓地には、今出川家、四条家などの旧華族や越前松平家の墓や、御所・堺町御門の変で新撰組に討たれた長州藩士の首塚もあります。

 鞍馬口から住宅地を東側に5分ほど歩いたところにあり、広い境内の中に縁日の屋台は2〜3件あり、その中で九条葱の苗などを売っている店もあり昔の縁日を見るようでした。時間的なこともあるようですが、周辺も境内も人がまばらで、地蔵盆の活気はあまりありませんでした。

 今回は時間的に3箇所しか巡ることができませんでしたが、寺の対応は様々で、六地蔵巡りとしての統一的なイベント感はありませんでした。また、まちなかの地蔵盆は時間の関係(最終日の午後)が大きいと思われますが、伝統都市京都のイメージから期待したほどの活気はなかったように感じました。それは、中心部は高齢化が進み子供が少ないせいかも知れません。

 帰りに加茂川沿いをゆっくりと散策しながら出町柳駅近くに行くと、そこでも地蔵盆が催され、地元の方々が気軽に声を掛けてくれました。その後、明治初期の旅館を改装した居酒屋で懇親会を行い、渇いた喉を潤しました。


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