09年度現地シンポジウム/和歌山県高野町を訪問/宗教観京都市をめざし様々な取り組み

09年度現地シンポジウム/和歌山県高野町を訪問

「宗教環境都市」をめざし様々な取り組み


壇上伽藍 根本大塔

 地域デザイン研究会(平峯悠理事長)の平成21年度現地シンポジウムが8月22日と23日の2日間、真言宗総本山・金剛峰寺を中心とする寺内町、和歌山県高野町で行われ、地デ研会員15人が参加した。

 高野町は世界遺産指定に伴い外国人観光客こそ急増しているものの、人口減少、宿泊客減少、モータリゼーションへの対応などの課題を抱える。22日に行われた高野町役場での意見交換会で、まちづくりの先導役として活躍する高橋寛治副町長は、町再生のキーワードを「時間をかけて昔に戻していくこと」と強調、これまでの「宗教観光都市」から「宗教環境都市」へとシフトした将来像の確立、コンパクトシティの維持向上、通過交通への対応、自然生態系の保護、景観整備、周辺集落の再生など、動き出したさまざまな取り組みを説明した。

 また、高野山に欠かせない公共交通「南海高野線」の変革について、地デ研会員の山部茂さん(南海電気鉄道)から話題提供が行われた。(文と写真:戸松稔、大戸修二)

■将来像は原風景の再生


高野町役場での意見交換会

  副町長の高橋さんは、元長野県飯田市の職員で、多くのまちづくりを手掛けてきた。今から5年前、高野町の新しい町長からの招請で助役に就任したが、当初は新町長の話を聞くだけで来たつもりが両者の 話が盛り上がり、高野山の宿坊に泊まったのが助役 就任を承諾することにつながった。「拉致のようなかたちで一泊し、翌日、自転車を借りて町の内外を走っ てみたら、従来とはまったく違った感動があった」と町との出会いを振り返る。

 高野町で働くことになって5年、高橋副町長は高い見識のもと、柔和な語り口で住民を説得しながら、新たなまちづくりの先頭に立つ。高野山には

  1. 緑の 豊かさ

  2. 旧来のルール(江戸時代からの「山規」)が 生きている

  3. 山上のコンパクトな都市

という3つ の特長がある。その一方で、観光の質、観光偏重の 姿勢に問題があるとし、目指すべき将来像として高野山の原風景と規範の再生を掲げる。残すべき大切なものは何かを町民が理解した上で、「未来に残す覚悟を持つことが大事」だと副町長は強調する。

■中心集落の施策

 高野町の人口は約4,000人。このうち約3,000人 が、標高850m、幅1km、奥行5kmの範囲で生活 している。山上都市であるこの地域についてはコンパクトな市街地の維持向上、静寂な地域の確保、源流域での河川の復元、公共交通優先、歩行者優先の 交通施策を進めようとしている。自動車交通に対しては、平成19年に実施した交通社会実験の延長上で、バイパス道路の整備、フリンジ駐車場の設置、車の 流入規制と駐車規制、巡回バスの導入などを構想しているが、その前提となる課題が住民による車利用 のルール化、中心市街地の再生計画である。

■景観整備 5年間で住民意識が激変

 同町では、歴史・文化を受け継ぐまちなみ再生の ため、CGで改装後の見え方を確かめつつ各店舗な どを景観にマッチした姿に変える「高野町景観計画」を進めてきた。地道な活動の成果として、全面的な 店舗の改装では93歳の高齢者が共鳴してくれるなど、「5年間で住民の意識が激変した」と高橋副町長。景観整備は地域の総合力と住民の協力があってこそ 実現することを実感した。これらは一遍には出来な いが、河川の復元も含めて未来のまちの風景を思い 浮かべながら、一つ一つゆっくりと変えていくこと にしている。

■住み続けられる周辺集落へと再生

  周辺集落には約1,000人が住んでいるが、平成17年度から地域再生マネージャーを活用して限界集落の再生に取り組んできた。橋本市や五條市、大阪 市などに行くことが近代化と捉えられがちだが、そ の流れを改め、一昔前に遡った高野山を中心とした 経済システムへと再生することを基本に、地域の後押しをしている。

 高齢化率75%の地域がものすごい可能性を秘めて いて、例えばある人は高野槇を実生から育てること に成功し、ある人はその販路開拓を行って、年金以 外に収入を上げている。ある集落は高野山への産品の納入を連綿と続けており、ある集落では産直の販 売会を開き、ある地区では廃校を利用した「山の学校」を開き地区の再生に取り組んでいる。このような様々な創意工夫による「住み続けられる集落の形成」を 徹底していくことにしている。

■むらづくり支援員制度を発足

【高橋語録】

 「高野町のまちづくり」についての高橋寛治副町長の説明の中で、印象的だった発言はつぎのとおり。

  • (町屋がすべて金剛峯寺からの借地であることに対して) 土地の所有には如何に問題の多いことか。高野山が借地であることは素晴らしいことだ。
  • コンパクトシティとは
    1. あるべきものが中心部にあり、
    2. 中心部と周辺部の関係がきちんと出来ている町のことだ。
  • (バイパス道路の計画図を説明しながら)中心部の市街 地の再生計画がない限りバイパス道路の計画はない。道路に100 億円を掛けるなら、中心部再生に100 億円をかけ るべきだ。
  • 出来っこないことをやるために、公務員は安定した地位 と長い仕事の期間を与えられている。出来っこないことを やるために公務員が居るのではないでしょうか。
  • 住み続けるために要るお金は大したことはないが、施設に入ったとたんに膨大なお金が掛かってしまう。どうやったら(限界集落に)住み続けられるかを徹底的にやってい きたい。
  • 高野山だから出来たというのは間違いだ。一般解では凡庸なものしか出て来ない。特殊解だからこそ普遍性のある答えをつくり得る。
  • 世界遺産とは、そこの住民が世界遺産につながった生活をするために、「私たちは世界遺産内で生活しているのだ」 と言う自己認識をするものであって、外に向かって打ち出すものでもなんでもない。

  同町は今年春から集落の再生を支援する「高野町 むらづくり支援員」制度を発足させた。月15万円 の委託料、月100時間の拘束で3年間保証しますと いう条件で全国に公募したところ、162人の応募があった。選考は集落の代表者が質問して選ぶ方式と し、6名の支援員が決定。支援員は各集落に配属され、地域の人たちと力をあわせて活性化に取り組むこと になる。このプロジェクトは全国的にもかなりのイ ンパクトがあり、国交省から「過疎集落再生のモデルケースにしたい」という申し入れがあったという。高野町流再生が可能となるような、地域整備の法改 正までが視野に入っている。

■主に交通政策で意見交換

 22日の意見交換会では、高橋副町長とともに同町 役場環境整備課の今井俊介課長、同課職員の高橋深 雪さんが出席、地デ研会員からの質問や提案に快く対応していただいた。質疑は主に交通政策に関する 事項が多かったが、地デ研では今回の現地シンポ参 加者から改めて高野町のまちづくりに関する意見・ 感想や提案を収集し、まとめた上で同町に提出する 予定でいる。

■南海高野線の改革について話題提供

<南海高野線>

 昭和初期の高野山から九度山まで材木を輸送する森林鉄道を引き継ぎ、昭和5年に高野山電気鉄道が開通して、公共 交通による高野山登山が始まった。以降、昭和35年の「高野山道路(現国道370号、480号)」の開通、昭和55年の「高野龍神スカイライン」の開通で自動車による高野山へのアクセスが実現し、主要な交通手段に転化している。

<南海高野線の現状>

 高野線(橋本〜極楽橋)の輸送密度は昭和50年代には5,000人/日で安定していたが、60年代になると高野山道路の無料開放(昭和62年)等が原因して逓減傾向に移行し、平成8〜18年の間では定期、定期外旅客の急減により、4,000人/日から2,400人/日に減少している。この結果、高野線は平成15年頃から年間約5億円の赤字路線に陥っている。観光入り込み客の鉄道分担率は、昭和60年代では1/3、平成5〜11年では1/4、現在では1/5と低下してきており、モータリゼーションの進行が赤字転落の主因である。

<路線振興の各種施策>


天空

 平成17年から通勤路線と山岳路線を分離して、一部ワンマン化して経費の節減に努めている。また、高野線の道中 を一層魅力的にすることを目的としたプロジェクトとして「高野花鉄道」を進めている。このプロジェクトではシンボルとして観光列車「天空」を平成21年7月から運行している。また関連プロ ジェクトとして「花屏風(駅の花による修景)」、「花のラッピング列車(児童 の描いた花の絵で車両をラッピング)」、「菜の花スポット(四季の花による空 間地の修景)」、「極楽橋森林整備プロジェクト」を進めている。また高野山駅、極楽橋駅のバリアフリー化は観光地の特例として日本で最初に認められたバ リアフリー事業であった。南海電鉄では今後とも路線振興策を、関係者の協力を得ながら進めていきたい。


スナップショット


観光列車「天空」で室外の景観を楽しむ


ケーブルカーで高野山駅到着


南海りんかんバスで高野町役場へ

高野町役場

山上の町を縦断する道路

宿坊「遍照光院」の庭園

懇親会での記念撮影

遍照光院前の参加者

案内看板で見学先を再確認

沿道では高野槇を販売していた

奥の院を歩く参加者

1年前に完成した奥の院
「司馬遼太郎文学碑」(下記)

伽藍地区での記念撮影
 

伽藍地区を歩く参加者
 

碑文
 高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
 山上は、ふしぎなほどに平坦である。
 そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時、勤仕されている。
 その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
 大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなづき、四季四時の虚空がひどく大きい。大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
 まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。

司馬遼太郎文学碑(「高野山管見」「歴史の舞台―文明のさまざま」より)
出典:http://www.koyasan.or.jp/news/081003.html

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