2006フォーラム「司馬遼太郎が問う大阪のかたち」

 NPO法人地域デザイン研究会主催の2006フォーラム「司馬遼太郎が問う大阪のかたち」が4月8日、大阪市城東区のクレオ大阪東ホールで開催され、市民や行政関係者、地デ研会員など約100人が参加した。第1部の基調講演では、司馬遼太郎記念館館長の上村洋行氏が「司馬の愛した大阪」と題して講演。第2部では京都大学大学院教授・樋口忠彦氏が「住処の原型から学ぶこれからの住処のかたち」と題して話題提供。これを受けた鼎談「まち・みちの原型から学ぶ都市のかたち」では、樋口氏、岩井珠惠氏(クリエイティブ フォーラム代表取締役)、平峯悠氏(地域デザイン研究会理事長)の3氏が語り合った。
 基調講演、話題提供、鼎談の要旨を掲載します。(文責:大戸修二)

藤田健二副理事長の開会あいさつ(要旨)

 大阪をはじめ関西の諸都市は、都市の「成熟」を見ずに「衰退」を抱え込み、「悪循環スパイラル」に落ち込んでいます。「混迷の時代」の中で私たちは、それらの解を未だ見いだすに至っていないように思います。「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」の言葉どおり、今こそ私たちは「歴史の原点」から「都市のありよう」について、考えてみることが求められているのではないでしょうか。 かつて、日本や大阪を訪れた欧米人が、「欧米の都市以上に美しく、高い精神文化と社会秩序をもつ都市が、アジアに存在する。」と、驚きをもって母国に伝えたと聞いています。 国は本来どうあるべきか、郷土や都市はいかにすれば真に再生するのか。そのことを懸命に考え、自らの筆の力と力強い行動で世に訴え続けたのは誰かと問う時、私は司馬遼太郎先生を思い起こさざるを得ません。各時代を背負い、その時代を変革して歴史の中を駆け抜けた「実在の人物像」を作品の中で生き生きと描くことで、多くの人に感銘を与えながら、あるべき「この国のかたち」を真に追い求めたのは、司馬先生でありましょう。 今回のフォーラムを通じて「あるべき大阪のかたち」が、少しでも皆様の心に芽生え、皆様方の日々の実践が互いにつながりあって、これからの関西の都市の再生に、実り多い成果となることを心から念願いたします。

 

基調講演

「司馬遼太郎と大阪のまち」

 講師:上村洋行氏 (司馬遼太郎記念館館長)

 司馬遼太郎記念館館長 上村洋行氏により、「司馬遼太郎と大阪のまち」と題して、司馬遼太郎が本拠地とした大阪の、歴史、文化、経済から何を学び、次世代にどう活かしていくかについて、幅広い観点から、約1時間にわたり、ご講演をいただいた。

 


話題提供

住処(生息地)の原型から学ぶこれからの住処のかたち

樋口忠彦氏(京都大学大学院教授)

山や川は背景というより、むしろ主景。そこに都や住処があったと考えるべきだろう。

●…日本人の住処(すみか)の原型を考えてみると、例えば大和(ヤマト)の景色が思い浮かぶ。日本の文献の中で自分たちの住んでいる場所をほめ称えた文章が古事記や日本書紀などに出ていて、その表現の中に住処の原型があると思う。

●…大伴家持は都をほめ称える歌を詠んでいる。久邇京(740−744)遷都への短歌は「今造る 久邇の都は 山川の清(さや)けき見れば うべ知らすらし」(今造ろうとしている久邇の都は、山川のさわやかな美しさを見ればまことに最もなことである)。都というのは山川の清けきところ。それが日本人の都(みやこ)感だったのだろう。都とは天皇の宮殿のあるところであって、必ずしも都市と結びつけて考えないほうがよいと思う。

●…平安京遷都の桓武天皇のことばは、「葛野の大宮の地は山川も麗しく 此の国 山川襟帯 自然に城を作す この形勝によりて……山背国を改めて 山城国となすべし」。ここでも山川が麗しい、山水襟帯とある。天皇の住む都はこうした場所だということ。それが都の原型ではないかと思う。

●…空海は高野山に修行の場を設けたが、そのときの空海のことばは「四面高嶺にして、平原の幽地」。山岳盆地に修行の聖地をつくり、弟子たちを育てていこうとした。鎌倉幕府は中心地として鶴岡八幡宮を造ったが、三方が山に囲まれ、海を臨む地形であった。「蔵風得水」といい、風を通して水を得る。落ち着いた住処、生息地にふさわしい地形を幕府の場所として選んだ。

●…日本人の住処や墓、神社などについて調べてみると、ある型が存在している。春日大社とその周辺を描いた春日宮曼荼羅図には、背後に円錐形の山が描かれている。日本人はお椀を伏せたような山には神様がいると考え、神奈備山として崇拝した。仏教が伝来し社殿が造られたが、元々は山そのものが御神体であった。

●…京都は東山三十六峰といわれ、江戸時代に当時の山の姿が描かれている。山の個々のかたちは、それぞれに異なる特定の場所から見た円錐形の山として描かれ、それぞれの山容をつなげることで東山三十六峰の絵として描いた。

●…山は見る位置によってかたちが変わる。豊臣秀次は近江八幡に城下町をつくるにあたり、山の姿かたちが美しく、円錐形に見える方向に城下町を配置した。また近江八幡では、周囲を取り囲む山の峰ごとに名前が付けられている。山のかたちに関心を持って生活してきたという証拠で、山々にどれだけ名前がついているかによって、地域の人たちの山に対するかかわりの深さがわかる。

●…日本では山川と一体になった国(みやこや住処)を理想とする考え方があったのではないのか。日本の都市を考える場合、まちだけをとらえて考えるのはよくないと思う。山川を背景としてではなく、むしろ山と川が主景としてあり、そこに都や住処があったと考えるべきだろう。

●…西洋の都市の場合はそうではない。バートン・パイクの『近代文学と都市』によると、「西欧都市には、誇りと罪という二律背反のイメージが、ずっとつきまとっている」という。罪悪感の根拠として「都市は自然からの分離を意味し、神によって創造された自然の秩序に対する人間の意思の押しつけ」と指摘し、これが都市であると言っている。

●…ニュールンベルクの都市は、城壁に囲まれ、城壁内は外部とは分離された人工的な世界であった。城壁の外側に田園風景、その外に自然がある。西欧ではそれが都市の基本形であった。

●…日本の都や住処は、西洋的な都市とは概念が違っている。私があえて都市という言葉を使わなかったのも、西洋人の概念で日本の都市を考えてはいけないということからだ。日本で都市という言葉が使われるようになったのは明治以降であり、それ以前は、すみか、とおり、ちまた、まち、みやこなどといわれていた。

●…日本人は山川と一体となったところに住むことを最高の喜びとしてきた。そこには罪悪感も何もない。江戸は京都盆地の広さと変わらないが、住んでいたのは非常に狭い地域で、そこに100万人が生活していた。しかし、少し歩けば丘陵地に行けたし、川遊びができた。海もあって非常に住みやすいところであった。江戸には四季の景物に合った名勝が300カ所以上あった。都市の中に自然があり、花鳥風月を楽しんだ。年中行事として神や仏を迎える多くの祭りがあった。

●…11〜12世紀の平安京では年中行事の1つとして祇園祭が始まり、それを桟敷で見物した。これが通り(道)の原型ではないかと思う。それが次第にまちに変わっていったわけだ。江戸時代初期には店ができ、人が行き交う。店には品物が並び、暖簾をくぐり中に入る。これが町屋になっていく。

●…日本のまちが魅力的だったのは、建物が柱と梁からなっているため開放的で連続的。通りでもあるし、家の中でもある。西洋のまちは家が石造りで開放的でなかったが、日本の場合は開放的で一体化した関係にあったからこそ、まちが魅力的であったといえる。


フォーラム第2部

鼎談「まち・みちの原型から学ぶ都市のかたち」

■出演者
◇樋口忠彦氏(京都大学大学院教授)
◇岩井珠惠氏(潟Nリエイティブ フォーラム代表取締役)
◇平峯悠氏(NPO法人地域デザイン研究会理事長)

◆じっと眺めてみれば、原型はどこかにある

平峯
 私たちが世の中に発信し何かに取り組んでいくためには、文化や歴史についての知識、考え方を深めていかなければならない。今回の鼎談では、それを前提にして進めたい。 日本は独自の文明を形成してきた。それは西洋の文明とは異なっていると認識した上で、原点となっていることを再評価し、これからの時代に生かしていくべきだろう。 司馬遼太郎は対談の中で「日本の原型は京都にあり」と言った。集約されたもの、原型が京都にあるという。京都は日本のふるさとといわれ、関心が集まってきたが、都市としてみた場合、景色、景観の原点として織り込まれている。じつはこうした場所は全国のところどころにあると思う。原点、原型や、文化の源は、私たちがどこかにたたずみ、じっと眺めてみれば必ずどこかにあるはずである。

岩井
 暮らしの中の慣習が、若い人たちと私たちの世代とは大きく違ってきている。景観に対しても受け止める感覚が違う。音で例えるなら、若い人はストリングスのゆらぎのある音よりも、エレクトリックでつくったゆらぎのない音が美しく感じられるそうだ。絵の具や染料で塗った物体色より、光源から発するモニターの色のほうが透明できれいだという。こうした感覚の人たちに対して、暮らし方が変われば外見(景観)も変えないといけないのだろうか。景観デザインに長年携わり、これまで信じてきた私自身の基準が揺らいでいる。 小泉八雲の「日本の面影」という本を読んで、私がこれまで思い描いていた原風景は本来の日本の風景からは相当改変された近代的な風景であって、日本の原風景はさらに違うところにあることを知った。景観デザインをする際の折り合いをどのあたりに置いたらよいのか、戸惑ってしまった。 樋口先生の講演では、日本の風景は「山川が主景かもしれない」とうかがった。それは日本画を描く精神と共通するものがあると感じる。西洋画の場合は自然を戦う相手として観察、描写するところがあるが、日本画の場合、自然は心の内を表し、親しい友達という感じがあって、表現に違いが出る。こうした立場は、道路や河川整備を行う場合も変わらないことだと思う。しかし、今の若者のことを考えると、この人たちにどんなデザインを提供すれば快適空間で美しいと感じてもらえるのかと迷ってしまう。

平峯
 原型的なものが変わるかもしれないとしたら、今後はどこに視点を置いてつくっていくべきなのか。私は人の心はそれほど変わらないと思っていた。

◆風景観も時代ごとに変化している

樋口
 景色とは物的環境と見方とが対になってあるもので、日本人の風景観も時代ごとに変化している。昔は日本アルプスをきれいと思う人はほとんどいなかった。美しいと思うようになったのは西洋からアルピニズムの考え方が入ってきてから。西洋でもアルプスが発見されたのは18世紀と浅く、それ以前は、山は交通の邪魔、醜悪なものと思われていた。その見方が変わったのは科学の発達による。植物生態学や地形学など科学的な目で山を見るようになり、崇高観という美意識が重なり合ってアルプスの美学が発見された。 最近では、屋久杉がきれいだと関心を呼んでいるが、貴重種に対する見方が非常にセンシティブになってきたからだ。時代とともに見方は展開していくもの、それが景色ではないかと思う。世界で景色を発見したのは中国人で、4世紀頃だといわれる。日本人は中国文化の影響を受けて、環境を景色としてみる見方を文献上で学んだ。それが日本風に変わっていった。 かつてあった美しいと思えるものを否定するではなく、積み重ねていくのが文化であり、私たちにとって大切なことだ。優れたものは、伝統的なものとの親近感を失っていないと思う。文化と同様に、風景も蓄積があるその上に成育していくものであり、長いスパンでとらえることが大切だと思う。

岩井
 四季折々に移りゆく乱れ咲きのような庭よりも、ベルサイユ宮殿のような同じものが幾何学的に並んでいるほうが美しいと思う人たちが多くなっている。とくに若い人たちはその傾向があり、日本の美意識はどこに行ったのかと思ってしまう。

平峯
 原点を見つけ出す方法として、何をどのように調べ、展開していったらよいのか。

樋口
 司馬遼太郎のよりどころが歴史であったように、やはり私たちは歴史的資料をしっかり調べ上げていくことが大切だと思う。コンサルタントの人たちも、学術的な資料を調べることは当然のこと。景観について調べるなら、ものの歴史と見方の歴史の両方からとらえて文献資料の中身を読み解き、複眼的な見方から位置づけをしていくことが重要だと思う。そうすることで発想も豊かになっていく。

◆延喜式を調べてみると、土地の有り様がわかる

岩井
 私が景観デザインをする場合、まず現地の地域特性を知るため歴史や由緒を調べる。近畿で仕事をする場合は、特に古代から脈々と続く歴史がポイントになる。文献として延喜式を調べると、その土地の有り様が分かる。また、幕末頃の摂津図絵や北摂図絵、史跡案内、観光ガイドなどもひと通り目を通す。例えば橋を架ける場合、地名のある場所は人の思い入れがあるところだから避ける。

平峯
 歴史を勉強する場合、遡り方という難しい問題がある。教科書では古代から入るが、分厚い歴史だから近代に来るまでに時間がかかり過ぎる。昭和に生まれた今の人は、戦後60年間のことは分かるがそれ以前をほとんど知らない。「坂の上の雲」の時代も分かっていない。明治・大正期に海外からいろんなものが入ってきて、日本の景観や国土を守り融合させるため当時の人たちはいろいろ考えた。しかし、その歴史的断片を私たちはあまり知らない。歴史をどこからひも解いたらよいのかを、私たちは教えられていない。明治・大正期の文献を最近調べてみて、当時ものすごい厚みのある歴史があったことが分かり、明治・大正期の人間の偉さをあらためて知った。ものの考え方は、どの時点でとらえるかによっても異なってくる。

岩井
 何も知らずに行うのでなく、認識をすることは大切だと思う。しかし、それらを知った上で、自分の考えを組み立てて、取り組まないと解決できないし、絵が描けなくなってしまう。

樋口
 とくに郷土のとある場所の歴史などはほとんど分かっていないし、しっかり調べて蓄積していくことが大切だと思う。

会場からの質問

 今回のテーマは「まち・みちの原型から学ぶ」。行政としてまちづくりに関わるものとして、どう取り組んだらよいのか。大阪の景観として何を守り、何を育てて行ったらよいのか。また、私たちが住む普通のまちやまちなみが、時代とともに良くなっていくのだろうか。

樋口
 「原型から学ぶ」とは、それぞれの主体や人によっても違う。持続性ある開発というのは、エネルギー消費の問題にとどまらず、文化を含めて資源や資産を壊さないで将来に残していくこと。その場合、原型にこだわる必要はいと思う。普通のまちの中では、そのまちの資源や資産とは何なのかを偏らずに見きわめ、残していくことが大切だ。景観づくりとは、建物や道路をつくり守っていくことでなく、年中行事のような生活そのもののこと。生活そのものの中に景観はある。そのように捉えていけば誰もが乗っていける。それが菜の花でも年中行事でもよいわけで、そうしていけば原型(変わらないもの)は見えてくるし、いろんな人が関わるようになるため、人も育っていくと思う。

平峯
 
行政に金がなくなり、企業にも金がない。そのことによって生まれてきた市民グループが徐々に増えている。行政は従来の役割を誰かに与えるべきで、役割を与えられた町衆が集まれば原型的なものはすぐにまとまっていくと思う。


司会進行役の道下さ

岩井
 いちばん守らないといけないものは地形だと思う。大阪ではビルが建てづまってしまい、上町台地でさえどこなのか分からなくなってしまった。道路づくりに関連して、農村地帯では各自が余剰な樹木を持ち寄って街路樹にしようという動きがでてきた。参画意識が高まり協働のまちづくり、道づくりへと発展している事例がある。要は村衆、町衆の見識に委ねることだ。見識を誘導するのが行政の仕事ではないのかと思う。

◆山河をよみがえらせることも大切

樋口
 大阪の全域近くが市街化区域になっているが、今後人口が減少していく中で、これを再編していくことも大切だと思うし、農業の再生も必然性がある。大阪はただ単に市街地が広がるというのでなく、市街地の中に山河や田畑をよみがえらせることも大切だと思う。

平峯
 今回のフォーラムで話題になった多くのことはハウ・ツーではなく、基本的に備えるべき教養だと言える。司馬遼太郎も土木学会での講演で、「教養のかたまりになれ」と言っている。教養のある人をどのようにつくっていくか、それは私たちの課題でもある。そのためにも日本の文化や歴史を学んでいくことを大切にしたい。


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