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悠悠禄

「下山の思想」と「進歩の思想」

平峯 悠

 不注意から山道で滑り、骨折手術のため病院送りとなった5月のある朝、ギブスをつけたままテレビをつけると、作家五木寛之氏が「下山の思想」という話をしていた。登山というのは山頂を極めた後、下山して初めて完結する。登りでは重い荷物を持ちトラバースを繰り返し、苦労して山頂に到達する。しかし下山では気持ちも姿勢も違い、速度も速くなるし、下界や周囲を眺める余裕も生まれる。心がけるのは安全に無事に下山するということである。それを五木氏は、人類が文明を築きあげる過程はじめ、人生や時代、生き方を登山になぞらえ、下山時から見える成熟した社会のあり方を提案していた。テレビではその程度であったため一応納得した。

 ところが退院後、「下山の思想(幻冬舎新書)-五木寛之著」を買い求め読んでみると、かなりの違和感を覚えた。五木寛之氏は1932年生まれ。私より少し上であり、時代の変遷はほぼ同じように経験している作家である。下山の思想を要約すると、敗戦後の日本は経済大国という山頂を目指しそれを成し遂げ、現在は下山にさしかかっている、その中で東日本大震災に遭遇し原発事故が生じた。これは二度目の敗戦でこれまでの成長・進歩の考え方や価値観から脱却しなければならない。西欧先進国でも下山の時代に入り、超大国アメリカでも同様である。戦後の日本を支えてきた「前向き」や「努力」「積極的」という考え方を評価しない、日本社会は再び頂点を目指す必要がない。「どうして2位ではダメなのか」という考え方を容認するなどである。このような時代認識を持つのは、成長を経験し下山途中の高齢者であるから言えることである。

 20世紀後半から現在までの日本では、成長が鈍化しデフレの時代が続き、成長とか進歩を感じることが出来ない世代が中心になっている。社会全体が明確な目標を持ちにくくなっているのは事実であろう。しかし常に目標を持ち新たな山頂を目指して上っていくという行為は、時代を超えた人類の本性でもある。その意識をそぐような「下山の思想」であればむしろ害を及ぼすのではないか。若い人や時代を背負っていこうとする人達にとって下山の思想は、新たな山頂を目指すことが不可能となった年寄りの戯言として受け止められるのではないか。

 20世紀の「進歩の思想」は科学技術の進歩と共に歩んできた。技術というのは本質的に人間社会の生活改善に役立つ。原発や核開発は人類が獲得した科学技術の成果ではあるが人間の文明に弊害を及ぼすというマイナスの側面は否定できない。しかしそれでも社会の倫理観や価値観をよりどころに技術の進展を是とする。今現在、生命・医療・食料・エネルギーなど様々な分野で、日本をはじめ世界の多くの科学者や専門家が科学技術の発展に心血を注ぎ、多くの技術者・職人は社会への応用を目指している。経済成長や効率という山頂を目指す時代は過ぎはているが、人類社会には目指すべき多様な山頂があり、その頂上を目指して人々は着実に上っていく。それを達成した後下山に入っていく。成長や進歩があって初めて「下山の思想」が生てくる。

 私を含め人生の終わりに近づいている高齢者としては、下山途中であるからこそ見えることが多い。これまでを振り返り、反省すべきところは反省し、足らずを明らかにし、次の世代や若い人達に伝えていくという役割があろう。「下山の思想」は、次世代へ伝えるべき教訓と考えると納得できる。


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