悠 悠 禄

高齢化社会における死生観

平峯 悠

 この世の中で「絶対」といえるのは、人間や生き物は必ず死ぬということである。若い人や働き盛りの人に対しては医療や科学の進歩により不意の病や死を出来る限り回避しなければならないのは当然であるが、急激に進む高齢化社会では人間らしく死を迎えるため、病院・施設の充実、介護師不足の解消、過度な薬漬けの防止、健康診断における基準値のあり方、医療・介護費用の抑制など社会全体で向き合わねばならない課題が多い。歳をとれば病気がちになり、命を全うするため家族や社会が手助けするのはこれも当たり前ではあるが、最近の首都圏での介護施設の不足や費用増大から高齢者を地方に移住させるという何とも言いようのない提言も出てきた。しかし一番やっかいなのは「寝たきり老人」問題である。

 寝たきりとは

  1. 遷延性意識障害:自力でも介助されても起床できず意識がない状態

  2. 完全な寝たきり:起床できないが意識は何とかある状態、

  3. 準寝たきり:自力では起き上がれないが介助されれば座位は維持の3段階がある。

 ①②の状態における介護の実態としては、点滴、胃ろう、痰の吸引と口腔ケアが必要で、要するに人工的に生かされている状態であり、管(クダ)を外せないようにベッドに縛り付けられているという悲惨な状況も生まれている。このような寝たきり老人は、正確な数字ではないが170万人(2010年)、2025年には230万人ともいわれ、今後はその数は急激に増加するという。しかも寝たきりの期間は、3年以上が約49%、1年以上を合計すると73%という。

 私たちはそのような状況を是とし、施設や看護師、医者の増加を容認しているのか、特に寝たきりの老人本人が望んでいるのか。老人の約9割以上は寝たきりを望まず、胃ろうや管(くだ)がつけられた姿にはむしろ嫌悪感を持ち、そうならないように必死でがんばっている。いったい誰がそのような状況を作り出しているのか。医者や病院にも、さらにその家族にも責任があるのではないか。面倒を見きれないから介護施設に入れ、そこでの命がどのように扱われているかを見ないようにしているのではないか。戦後の教育や社会の風潮は、観念的な「命の大切さ」や「人の命は地球より重い」で代表され、1分、1秒でも生きていることが正しいと思っていないか。本当に生きる、死ぬとはどのようなことかなどを置き去りにしていると思う。

 「西欧に寝たきり老人はいない」という書物が出版されたが、日本人は死なども大きな自然のリズムとして捉え、生まれ育った地域共同体を含めた家族のなかで死ぬことは当然と考え、不本意であっても死に対する恐怖や不安、疑惑を持たず平然と死ねた。「お迎えが来る」「あの世に行く」と言うように死は生とは断絶せず土に帰っていくという思想を持ち続けてきた。死が近づけば物が食べられなくなるのは当たり前、死んでいくときは一人、このような当たり前のことを前提とした介護や医療でなければならない。寝たきりで平均寿命が伸びても何の意味もない。寝たきり状態はこの自然な営みに明らかに反すると思う。

 死生観というのは年寄りだけに課せられた命題ではなく若い人を含むすべての人に共通する。人間の尊厳とは、死を看取るとはどういうことかを真剣に考えねばならない。経済大国になった日本の欠点は生死をお金で解決する傾向にあるが、ケアも最小限、自分のことは自分で(手助けあれば感謝)そのような「覚悟」も必要である。そうは言っても正直大変悩ましい問題であり簡単には割り切れない。河合隼雄氏が「死は人間が受ける最終試験」と言ったが、社会全体に課せられた重要な試験でもある。


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