お陰さまで<潮騒>創刊100号

 1991年創刊の地域デザイン研究会機関紙「潮騒」は、今号で100号を迎えました。それは愛読者であり、出稿者である地デ研会員の20年におよぶ支えの賜物といえます。今後とも多くの方々に愛される「潮騒」でありたいと願っております。(編集委員一同)

「潮騒」は今?

高岡邦彦

 過日大戸編集長から直指名で、「次回“潮騒”が100号を迎えるから、是非とも一文を執筆して欲しい」と頼まれた。何故にと問うと、「高岡さんが潮騒の命名者だからですヨ」と。「僕は提案者だけど、命名者ではありませんヨ」と断ったのだが、「それでも貴方の案で決まったんだから…」と。採用された理由は伺っていないが、公募に応じたのは、私一人だったそうだ。「命名時の文章、とても良く出来ていますヨ。後程メールで送りますから、書いてくださいね」と、お世辞を忘れない人だ。

 2・3日たって、送られてきたものを読んだ。詩作時の感興が、甦って来た。詩作に1時間もかかっていないが、改めて目を通すと、技巧的だが良く書けていると思える。(今では無理だネ。)後の8行を言いたいために、前8行をイントロに使っている。同じ言葉、同じ音を繰り返し使うことで、絶えない波動を暗喩し、奇数行で大きく押し寄せる波を表わし、偶数行で静かに引き去る波を示している。(判り難いと思われる人には、声を出してお読みになることをお奨めします。)

 全体として語っているのは、都市空間は常に変容しているが、それは行動形態が異なってきたからで、その予兆は現実の都市にあり、危険性のあるものは既に警鐘が鳴っているから、目を凝らしてよく観、耳を欹てて聴いていなければならない。そのためには不断のエネルギーを持ち、地道な活動を続けることが肝要だと、予言している。

 採用当初、編集担当者に、「いずれ機関紙のタイトルが、何故潮騒なのかと尋ねる人がでてくるから、二年に1回位は、紙末にこれを載せたらよい。」と進言したが、全く果たされないまま、現在に至っている。 余談だが、当時旧知のイギリス女性(戦前のグラマースクール卒業者)に経緯を説明して、これを見せたところ、はなはだしく絶賛された。今彼女は上海に居るが、かの地でもっと激しく、これを感じ取っていることだろう。


御茶室「潮騒」

大戸修二

 目的地は北区西天満交差点に近いビルの地下にある。階段を下りると、十数軒ある両側店舗のシャッターは閉まったまま。1軒だけが開いていた。

 平日の午後、御茶室「潮騒」のドアを押すと客はおらず、マスターひとりと目が合った。数年前から気になっていたが、入ったのは初めてだ。大阪万博翌年の昭和46年(1971年)の開店祝いに、上映中だった百恵・友和の「潮騒」入場券を配ったという。熱帯海水魚が泳ぐ大水槽は、綺麗で雄大だとマスコミにも取り上げられた。来店客も出前も多く女性店員5−6人が交代制で対応した。客はゼネコン、不動産屋、弁護士など多種多様。コワモテ(強面)さんもやってきた。純喫茶なのに一時、客の提案でビール・モーニングもやったそうだ。コンビニも缶ビールも普及前の時代である。

 開店から40年が過ぎ、当時120円のコーヒーは今350円になった。マスターに売上を聞いたら、「当時の3分の1。貨幣価値からすると10分の1になるかな」。複雑な思いが返ってきた。帰りがけにもらった店のマッチ(写真)には、街が賑わった梅ヶ枝町という旧地番、3桁の旧局番が印刷されていた。


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