個別講演(2)

阪急梅田駅の移設とその後の阪急村の形成

上村 正美氏(阪急電鉄(株)都市交通部長)

 梅田駅の移転とか、阪急グループが考えている鉄道とまちと言うものの原点はやはり小林一三が作り上げたモデルと思っている。それを前提としてお話しさせて頂く。

 小林一三は鉄道とまちづくりのシナジー効果を出し、まさしく阪急の事業モデルを作り出した創業者であり、鉄道自体がインフラを利用者の運賃で整備していく、今で言うPFI方式を作り出した。そのベースになったのが梅田から宝塚の路線で、3つの仕掛けを作った。一つが住宅販売による土地利用の確保。有名な話であるが、池田室町で開業と同時にローンをつけて住宅を売り出した。豊中周辺の地域を見れば、豊中駅が出来て住宅を開発した結果、他の豊中市のエリアに比べ人口が急増している。駅を中心としてまちを作ってきたのが当時の住宅政策である。二つ目は都市部と反対側に集客施設を作ることで、箕面に動物園を作った。これは失敗したが、宝塚に温泉とレジャーランドを作った。プールを作ったが水が冷たすぎて誰も入らないので蓋をして作ったのが宝塚歌劇場と言うことで、結構失敗しながら、人を集めてきた。三つ目がターミナルの流通事業で、初めてのターミナル型デパートを作った。最初は白木屋に床を貸したが、うまく行きそうであったので直営にした。

 明治34年3月10日の開業当初はまだ単車が走っていて、今の阪急百貨店の南側、御堂筋の突当りに駅があった。その後、複線にして徐々にホームが広がっていき、阪急ビルも出来た。大正15年には国鉄の上を超えて高架のホームができる。その後、国鉄が高架になり、一日のうちに高架から地上に切り替えた。これが昔の方が覚えられているホームである。

 3複線になり、阪急の原点が完成したのが昭和34年。当時のホームは6両・7両が限界であったが、需要が急速に伸び混雑率が驚異的な数字になっており、今後の輸送力増強をどうしたらよいかが問題になった。当時、新幹線が来る新大阪にターミナルを作ろうと言う計画があり、京都線、神戸線、宝塚線から新大阪に電車を入れていこうと言う計画であったが、これは結果的に進まず、梅田駅の移転、堺筋線の直通運転の二つが進んでいった。その結果、神戸線から順次移していって、昭和48年残されていた京都線の1号線が出来て、梅田駅の移転が完了した。当時は北に移すのは大英断であって、他にいろんな案があった。南に伸ばして10両編成にするとか、地下にして阪神百貨店の辺りに持って行くとか計画されたが、結果として、北へ移しムービングウォークで抵抗をなくそうとしたとして出来たのが現在の駅である。

 百貨店の増床、阪急グランドビル等、直営、阪急不動産のものを含め阪急村というものが順次出来上がってきた。主のものとして阪急3番街は1969年、阪急ファイブが1971年、ナビオ阪急が1980年など。ちゃやまちアプローズと阪急本社は阪急百貨店の配送センターとボーリング場とスケートリンクの跡地に1994年に開業。

 阪急百貨店の改築については地下街、JRと阪急、地上と地下をバリアフリーで繋いでいくまちづくりを実施した。鉄道会社が交通ネットワークと動線を考えていく思想をもとにして計画したことが一番のポイントと言える。

 これまで阪急電鉄が考えていたまちはビルが多かったが、茶屋町は路面型で歩いて楽しめるまちで、梅田は地下街でビルを繋いでいるまちであるが、その周辺に平面で歩けるまちが出来てきた。 岩本さんにもおっしゃったように、真ん中の核だけでなく、周辺のまちが広がっていくのではないかと思っている。それが梅田の魅力を高める上で大事だと思っている。更に、大阪にとって中之島、難波、新大阪などの軸を広げて、その中で梅田を作っていくことが重要である。

 阪急電鉄としては単に梅田をどうするかではなく、小林一三の原点に帰り、阪急沿線の方々がいかにしてより良い生活ができるか、生活レベルを上げる、消費への経済的な余力を持つことが都心部での経済的な活動につながるので、沿線をきちっと作り上げていくことが大事。沿線の方の生活レベルが上がることが梅田地区の経済活動、消費活動に繋がっていくことになる。梅田のまちを考えるだけでなく、沿線にお住まいの方のまちをどうするかを一緒に考えることが梅田の発展に繋がると考えている。


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